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喪失に向き合うことの難しさ

考え方
*記事内に広告が含まれています*

Image by karosieben from Pixabay

むっちです。

海外ドラマが好きで何本も掛け持ちして観ています。

今はHuluで「グッド・ドクター名医の条件」を観ています。
アメリカのテレビドラマです。

ショーンの喪失

自閉症でサヴァン症候群の主人公ショーンが研修医仲間と成長していく、ヒューマンメディカルドラマ。

メディカルドラマで好きなのは、他にも「グレイズアナトミー」「シカゴメッド」があって、それぞれ毎回目が離せません。

グレイズアナトミーは30代に入った頃から見始めたドラマですが、どんだけ涙してきたことか。
20年経っているのにシーズンはまだ完結していません。

とはいえ、今はグッド・ドクター。

昨夜見たシーズン4の17話は、ショーンと恋人のリアが子供を失った失意の中でもがき、苦しんでいる会でした。

その悲しみをうまく表現できず、仕事に打ち込もうとするけれど、ミスをしてイライラしているショーンに、親代わりのグラスマン先生がアドバイスします。

家に帰って喪失に向き合え」

このセリフに妙に引っかかりました。

私の喪失

そもそも喪失に向き合うって、何をどうすることなんだろう?

他人事としてドラマを観ている分にはなんとなくわかる、よく聞くセリフです。
「悲しみと向き合う」とか「怒りと向き合う」とかね。

以前、自分自身の結婚に対する苦しみに深く向き合った話を書きました。

このとき自分の苦しみを深掘りして、一歩進むことができたのを今でもよく覚えています。
だけど、まだ自分の中で蓋をしている感情があることをドラマをみて思い出しました。

父親の死です。

父親を亡くしたことの喪失感と向き合ってこなかったこと、実は自覚しています。

父は13年前、元々悪かった腎臓が悪化したのと、肺炎のための呼吸不全とで、病院に行ったら入院となり、その日のうちに意識不明になりました。

その後一度持ち直したけれど、4ヶ月の闘病の末亡くなりました。

父の闘病中私は闘病日記を書いていました。
元気になると信じていたので、元気になったら、自分が意識がなかったときにどんな治療がされたかとか、誰がお見舞いにきたかを知りたがるだろうと思って記録をつけました。

父は自発呼吸ができなくなり喉を切開して呼吸器を入れていました。

いつもいつも憎まれ口をきいていたのに、もう自分の声で話すことができなくなった。
食べることが大好きだったのに、自分の口から食べることができなくなった。
仕切りやだったから、みんなの葬式を自分が仕切ると馬鹿なことを言っていたくせに、あっというまに自分が先に死んでしまった。

一番思い出すのが辛いのは、亡くなる2・3週間前くらいから、目が覚めた時に絶望したような表情をすることだった。

その表情をみるのが本当に辛かった。

私は、父が亡くなって13年経っているのに、未だにその当時つけていた闘病日記を開くことすらできないのです。

父のことはいまだに毎日のように私と母と姉の会話の中に出てきます。
別に、父の話を避けているなんてことはないのです。

喪失と向き合うってなんだろう?

父を失ったことが悲しいと、認めること?
あの時、父の絶望した顔を見て自分も絶望したと認めること?
父を絶望から救ってあげる声かけが出来ずに、ただ側にいただけの自分が情けなかったと認めること?
絶対帰れると思っていたけど、最後には諦めてしまったことを認めること?
仏壇に置かれている父の写真に、いまだに違和感があると認めること?

よくわからないです。
そもそも向き合えたら私の心は何か変化が起こるんだろうか。
思い出したときに感じる、黒くて深い穴を覗いたときみたいな気持ちになることをわざわざする必要があるのかな。

時間が経てばこの気持ちはなくなると思っていたけど、失恋の喪失感とは種類が違うみたい。

多くの人が喪失の悲しみや苦しみを抱えて生きていると思う。
倒れてその日のうちに亡くなってしまった人もいるだろうし、元気だったのに事故で家族を急になくしてしまうこともあるだろう。
その人達はサヨナラも言えなかったはず。

4ヶ月間闘病して一度は筆談でも会話できている私とは、その喪失感は比べものにならない。
その苦しみは想像もできない。
どうやってその喪失と向き合っているんだろう。

喪失と向き合うのは簡単ではなくて、こうするのがいい、という決まりもないんだなと改めて気づかされました。

どなたかのお役に立てば幸いです。

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